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福岡地方裁判所 昭和55年(ワ)3191号 判決

原告 西田くに子

〈ほか一名〉

右原告両名訴訟代理人弁護士 福島康夫

同 辻本育子

同 池永満

被告 枝川直義

右訴訟代理人弁護士 大石幸二

同 安永沢太

同 安永宏

主文

一  被告は、原告西田くに子に対し、金九九八万七七三〇円と、内金九二八万七七三〇円に対する昭和五五年三月二五日から支払済みまで、及び内金七〇万円に対する昭和五六年一月一五日から支払済みまでそれぞれ年五分の割合による金員を支払え。

二  被告は、原告西田良英に対し、金一五三二万五四六一円と、内金一四一二万五四六一円に対する昭和五五年三月二五日から支払済みまで、及び内金一二〇万円に対する昭和五六年一月一五日から支払済みまでそれぞれ年五分の割合による金員を支払え。

三  原告らのその余の請求をいずれも棄却する。

四  訴訟費用は、これを五分し、その三を原告らの、その余を被告の負担とする。

五  この判決は、第一、第二項に限り、仮に執行することができる。

事実

第一当事者の求めた裁判

一  請求の趣旨

1  被告は、原告西田くに子に対し、金二六三五万一五二四円と、内金二三九五万一五二四円に対する昭和五五年三月二五日から支払済みまで、及び内金二四〇万円に対する昭和五六年一月一五日から支払済みまでそれぞれ年五分の割合による金員を支払え。

2  被告は、原告西田良英に対し、金四〇一五万三〇四八円と、内金三六五〇万三〇四八円に対する昭和五五年三月二五日から支払済みまで、及び内金三六五万円に対する昭和五六年一月一五日から支払済みまでそれぞれ年五分の割合による金員を支払え。

3  訴訟費用は被告の負担とする。

4  1、2項につき仮執行宣言

二  請求の趣旨に対する答弁

1  原告らの請求をいずれも棄却する。

2  訴訟費用は原告らの負担とする。

第二当事者の主張

一  請求原因

1  (当事者)

原告西田くに子(以下「原告くに子」という。)は、訴外亡西田良生(以下「亡良生」という。)の妻であり、原告西田良英(以下「原告良英」という。)は、亡良生の子であり、被告は、肩書地において枝川胃腸科医院(以下「被告医院」という。)を開業している医師である。

2  (診療経過等)

(一) 亡良生は、昭和五五年一月三日ころより両足のむくみを感じたことから、同年三月四日被告医院で受診し、被告からネフローゼ症候群(以下「ネ症候群」という。)と診断され、同年三月七日再通院したのち、同月一〇日より被告医院に入院した。

(二) 亡良生は、入院後、被告から毎日生理的食塩水で希釈した合成副腎皮質ステロイド剤であるデキサメサゾン注射液(商品名オルガドロン注射液。以下「デキサメサゾン」という。)の微量を局所に筋注するという被告独特の治療法を受けていた。

(三) 亡良生は、同月一六日午後九時ころ、突然嘔吐し、翌一七日被告に対し、頭痛及び目眩がし、頭がフラフラする旨を訴えた。そのため、被告による同日の右治療は、一階の診療室で行わず、三階の同人の病室で実施された。

(四) 被告は、同月一九日午前一〇時ころ、右のとおり亡良生が頭痛やフラフラする感じを訴えていたことから、高血圧症を疑い、入院後初めて血圧測定をしたところ、収縮期(最大)血圧二一〇mmHg、拡張期(最小)血圧一二〇mmHg(以下、血圧値については「mmHg」を略し、数値のみにて表示する。)という異常に高い血圧値であった。

(五) 亡良生は、同月二二日午前中被告の治療を受け、被告から外泊許可を得て同日午後二時ころ帰宅した。

(六) 亡良生は、帰宅当日顔色も悪く、首のつけ根の激痛を訴えて、こたつの中で横になったまま一日を過ごした。翌二三日も首のつけ根の痛みを訴えていたところ、深夜一二時ころからうわごとを言いはじめ、その後意識を失い、救急車で沼田病院に運ばれたが、既に高血圧による脳出血を起こしており、同月二四日午前九時一七分に死亡した。

3  (被告の責任)

前記のとおり、亡良生は、昭和五五年三月四日被告医院を訪れ、診断、治療を依頼し、被告がこれに応じたことにより診療契約が結ばれたものであるが、右診療契約の内容は、被告が専門とする微量ステロイド筋注治療法による対症療法にとどまらず、亡良生の症状及びその原因を医学的に解明して必要な最善の治療を実施することを目的とした契約であり、診療の過程で発見された疾病の治療や合併症の予防を当然含むものである。ことに本件のように入院により右診療を行なう場合には、医師は患者を自己の全面的管理下においているのであるから、通院の場合以上に患者の全身症状の変化と状況を適確につかんでこれを管理し、必要な治療をなすべき義務(全身管理義務)を負うべきものである。にもかかわらず、被告は、前記治療法による対症的療法しか行なわず、左記(一)ないし(四)の過失により、良生を高血圧性脳出血により死亡するに至らしめた。

(一) 適切な降圧療法を実施しなかった過失

亡良生は、前記のとおり、昭和五五年三月一六日嘔吐し、翌一七日頭痛や、頭がフラフラする症状等を訴え、同月一九日には最大血圧二一〇、最小血圧一二〇を示したのであるから、高血圧による脳出血等の合併症の発症を防止するため、遅くともこの時点で直ちに降圧剤療法を開始すべき義務があるのに、これを行なわなかった。

(二) 転医勧告義務を怠った過失

被告医院において降圧剤療法を行っていなかったとすれば、被告は、亡良生が降圧剤療法を必要とする症状にあることを知った右三月一九日の時点で、同療法を受けさせるため、亡良生に対して直ちに転医の勧告をなすべき義務があるのに、これをしなかった。

(三) デキサメサゾンを漫然と投与した過失

被告が亡良生に対して投与していたデキサメサゾンは、副作用として血圧上昇作用を有するから、高血圧の患者には投与してはならない義務があるのに、漫然とその投与を続行した。

(四) 厳重な安静療法、食事療法等を実施しなかった過失

亡良生のような合併症のある高血圧患者や重症高血圧患者に対しては、運動等の制限を厳しくし、安静を確保するとともに、減塩食を中心とする食事療法を実施すべき義務があるのに、被告は、亡良生に対し「できるだけ寝ておきなさい」という程度の指示しかしておらず、入浴も禁止していないなど安静確保については全く実効性がなく、そればかりか、被告は亡良生が三月二二日に外泊許可を求めた際、漫然これを許可し、同人の外泊帰宅後もその身体状況を把握する等の努力を全くしなかった。

また、被告は、亡良生に対し、食事療法も取っていなかった。

4  (損害)

(一) 亡良生の逸失利益の相続分

亡良生は昭和二三年二月二〇日生(死亡当時三二歳)の男性であり、死亡前まで有限会社ふく屋に勤務し、昭和五四年の年収は金二八五万一四四六円であったので、その三割を生活費として控除したのち、満六七歳に至るまでの三五年間の中間利息を新ホフマン式計算法(係数一九・九一七)により逸失利益を算出すると、次の計算式のとおり金三九七五万四五七四円となる。

285万1446円×0.7×19.917=3975万4574円

右金額の損害賠償請求権は、原告くに子がその三分の一である金一三二五万一五二四円を、原告良英がその三分の二である金二六五〇万三〇四八円を各相続した。

(二) 原告らの被った精神的苦痛に対する慰謝料

亡良生は、死亡当時三二歳の働き盛りであり、原告くに子と結婚して五年もたっておらず、夫婦の間に生れていた一粒種の良英は四歳にも達していなかった。

原告らは、被告の重大な過失により、一家の主柱で、最愛の夫であり父である亡良生を失ったのであり、原告らの悲しみ、苦痛は測りしれない程深いものである。

したがって、原告らの慰謝料は各一〇〇〇万円が相当である。

(三) 葬儀費用

原告くに子は、良生の葬儀費用として金七〇万円の出費を余儀なくされた。

(四) 弁護士費用

被告は任意に損害賠償義務を履行しないので、原告らは原告ら代理人らに本訴提起と遂行を依頼し福岡県弁護士会報酬規定により報酬支払を約したが、そのうち原告くに子につき金二四〇万円を、原告良英につき金三六五万円を、被告に負担させるのが相当である。

5  よって、原告らは、被告に対し、診療契約上の債務不履行又は不法行為による損害賠償請求権に基づいて、原告くに子については、金二六三五万一五二四円と、内金二三九五万一五二四円(弁護士費用を除いた金額)に対する亡良生が死亡した日の翌日である昭和五五年三月二五日から支払済みまで、及び内金二四〇万円(弁護士費用)に対する訴状送達の日の翌日である昭和五六年一月一五日から支払済みまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金、原告良英については、金四〇一五万三〇四八円と、内金三六五〇万三〇四八円(弁護士費用を除いた金額)に対する亡良生が死亡した日の翌日である昭和五五年三月二五日から支払済みまで、及び内金三六五万円(弁護士費用)に対する訴状送達の日の翌日である昭和五六年一月一五日から支払済みまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の各支払いを求める。

二  請求原因に対する認否

1  請求原因1(当事者)の事実は認める。

2  請求原因2(診療経過等)の事実について

(一) 同2(一)の事実は認める。

(二) 同2(二)の事実のうち、被告が亡良生に対し、入院中デキサメサゾンの微量を局所に筋注するという治療法を実施していた事実は認める。デキサメサゾンの投与量は一日当り、五〇CC約二・〇ミリグラムであった。

(三) 同2(三)の事実のうち、亡良生が昭和五五年三月一六日午後九時ころ嘔吐し、翌一七日被告に対し、フラフラする旨を訴え、被告が同日の治療を三階の同人の病室で実施した事実は認め、その余の事実は不知。

(四) 同2(四)の事実のうち、三月一九日午前一〇時ころ、亡良生の血圧測定をしたところ、最大血圧二一〇、最小血圧一二〇であったことは認め、その余は争う。

(五) 同2(五)の事実のうち、亡良生が同月二二日午前中被告の治療を受け、帰宅したことは認めるが、被告が外泊許可したことは否認する。なお、同月二二日亡良生から被告に対し、外泊許可の申出があったが、被告は、これを禁止したのに、同人が無断で帰宅したものである。

(六) 同2(六)の事実のうち、亡良生が三月二四日午前九時一七分に沼田病院で脳出血により死亡した事実は認めるが、その余の事実は不知。

3  請求原因3(被告の責任)の事実はいずれも否認する。

4  請求原因4(損害)はいずれも争う。

三  請求原因3(被告の責任)に対する被告の主張

1  診療契約について

被告の専門分野は本来内臓外科、特に胃腸外科であったが、昭和五〇年頃より患者の不定愁訴、殊に機能的変化のある疾患について微量のステロイド溶液の筋注による治療法を長い経験から開発し、専ら右に該当する患者の依頼により専門的に診療していたものであり、右機能的変化のある疾患以外の器質的病変のある患者については被告医院での治療が困難であるため、各々の専門医に転医させ、又は併行的に診療をすすめていたものである。

従って亡良生との診療契約も被告が専門とする微量ステロイド筋注治療法による両脚倦怠感、浮腫の治療契約であって、ネ症候群、肝機能障害症の治療までは含まれず、同疾患の治療については他への転医を勧めていた。尤も、医師としての一般的診療契約に従って、ネ症候群、肝機能障害症についても一般的治療としての安静療法、食事療法は指示していた。

2  次のとおり、被告の亡良生に対する診療行為には過失は存しない。

(一) 適切な降圧療法を実施しなかった過失について

被告は、昭和五五年三月一九日、血圧測定の結果により亡良生の高血圧の症状を認知したが、高血圧症は高血圧の症状の持続する症状を示すものであり、その診断を下すためには、五日ないし一週間の間隔をおいて、二回以上の血圧測定を必要とする。しかるに、亡良生は同月二二日無断で外出したため、血圧測定の機会がなく右診断を下す余裕がなかった。

しかして、ただ一回の血圧測定で直ちに降圧剤療法を開始するか否かは、医師の裁量に任されるべきものである。

(二) 転医勧告をしなかった過失について

被告は、亡良生の診療を始めた当初より転医の勧告を考えていたが、足の浮腫等を軽減する治療は被告の治療法によっても可能であったのでこれを続けていたところ、入院後三月一四日には浮腫も減少し症状が好転していたので、転医の勧告の時期も延ばしていたのである。

(三) デキサメサゾンを漫然と投与した過失について

デキサメサゾン投与による血圧上昇の副作用については、一日の投与量が二ないし四ミリグラムでは副作用がないことが認められており、また血圧上昇があるとしても一過性のものであるから、これによって、脳出血の直接の原因となることはない。

(四) 厳重な安静、食事療法等を実施しなかった過失について

被告としては、亡良生に対し、安静を指示し、減塩食を実施していたものであるが、同人が被告の指示を遵守せず、症状悪化させたものである。三月二二日の外泊についても、前記のとおり、被告がこれを禁じたにもかかわらず、同人は無断で帰宅したものである。

第三証拠《省略》

理由

一  請求原因1(当事者)の事実は当事者間に争いがなく、同2(診療経過等)の事実中、同2(一)の事実、同2(二)の事実のうち、亡良生が、入院後被告から生理的食塩水で希釈した合成副腎皮質ステロイド剤であるデキサメサゾンの微量を局所に筋注するという治療法を受けていたこと、同2(三)の事実のうち、亡良生が、同月一六日午後九時ころ嘔吐し、翌一七日には被告に対し、フラフラする旨を訴え、被告が同日の治療を三階の同人の病室で実施したこと、同2(四)の事実のうち、被告が同月一九日午前一〇時ころ亡良生の血圧測定をしたところ、最大血圧二一〇、最小血圧一二〇であったこと、同2(五)の事実のうち、亡良生が、同月二二日午前中被告の治療を受け、帰宅したこと、同2(六)の事実のうち、良生が同月二四日午前九時一七分に沼田病院で脳出血により死亡したことは、いずれも当事者間に争いがない。

二  そこで、被告の過失の存否を判断する前提として、被告の亡良生に対する診療の経過等について検討する。

右当事者間に争いがない事実と、《証拠省略》を総合すれば、以下の事実が認められる。

1  既往歴

亡良生は、昭和五〇年四月二八日に九州大学医学部付属病院で受診し、ネ症候群(蛋白尿、血尿、高血圧、甲状腺腫、浮腫をその症状とする。)と診断され、その後同年五月二日福岡市立第一病院に転院し、同病院において、同日から同年七月二六日まで入院治療を受けた既往歴があった。

2  ネフローゼ症候群

ネフローゼ症候群とは、諸種の糸球体病変に起因した高度の蛋白尿及びそれによる低蛋白血症を基盤として惹起された病態を総括したものを指し、高度の蛋白尿、低蛋白血症、高脂血症及び浮腫を主たる徴候とする。ネ症候群にあっては、原則として血圧上昇を伴うことはないが、腎炎性変化群では腎炎による血圧上昇がみられ、高血圧型のものは、持続性の高血圧症を主体とする悪性高血圧型への移行の危険性を多分に持つ。

なお、同症候群に対しては、ステロイド療法を主体とするものとされている。

3  被告医院における受診

亡良生は、昭和五五年一月三日ころより両足のむくみを感じ、同年三月四日に被告医院で受診したところ、被告は、亡良生の前記既往歴と両下腿、足にかなりの浮腫がみられること、尿検査の結果から、主病をネ症候群と診断し、亡良生は、同年三月七日の再通院を経て、同月一〇日被告医院に入院した。なお、右入院の際に血液検査がなされたが、血圧測定は、後記のとおり三月一九日に至るまでなされていない。

4  被告の治療法

被告の専門分野はもともと内臓外科、特に胃腸外科であったが、昭和五〇年頃より微量のステロイド溶液を筋注するという被告独得の治療法を開始し、昭和四九年発行の被告の著書「なおさん物語」(乙第三号証)により、ネ症候群、高血圧症を含め、ほとんどの難病に右治療法の効果がある旨を明らかにしており、亡良生も右書物を読んで被告医院を受診することを決意したものである。

5  被告の診療経過

(一)  被告は、亡良生の入院中、減塩食を指示するとともに、同人の両足の浮腫に対する治療として、デキサメサゾン一日当り五〇CC約二・〇ミリグラムを毎日下肢、腹筋等に筋注し、これにより両足の浮腫に対してはかなりの治療効果を上げた。

(二)  亡良生は、同月一六日午後八時二〇分ころ、原告らが見舞の際に持参した菓子とパンを食べたところ、同日午後九時ころ嘔吐した。

(三)  被告は、翌一七日亡良生から、右嘔吐の事実を聞くとともに、亡良生がフラフラする旨を訴え、「きつい、きつい」と言ってベッドで寝ていたので、被告は、同日の治療は三階の同人の病室で行い、同人に対し、ベッドで寝ているよう指示した。

(四)  翌一八日には亡良生の体調は前日よりは良好そうであったが、被告は同日も同人に対し、ベッドで寝ているよう指示した。

(五)  同月一九日午前一〇時ころ、被告は、亡良生が前記のようにフラフラした旨訴えたことから、血圧を測定する必要を感じ、測定したところ、最大血圧二一〇、最小血圧一二〇であった。

これにより、被告は、右高血圧をネ症候群の一症状としてのものと診断し、亡良生に対し、従前同様ベッドに寝ているよう指示し、同日夕方同人が外泊許可を申出た(翌三月二〇日は春分の日である。)が、これを禁じた。

(六)  同月二一日、亡良生は体調良好だとして被告に無断で入浴した。

(七)  同月二二日(土曜日)午前一〇時頃、前記注射治療をした後、亡良生から外泊許可の申出があった際、被告は、一旦は「それはいかん」と答えたが、同人に対し、「帰るとすれば汽車で帰るか、駅からはどうするのか」と問い直したところ、同人は「タクシーで帰る。」と答え、これに対し、被告は「ううん」と言い、あいまいに返事したにすぎなかった。

6  良生の死亡

亡良生は、被告に述べた通りの交通手段で同日午後三時ころ帰宅したが、同日はこたつに横になったまま過ごした。良生は、翌二三日も首の付け根の痛みを訴え、午後九時ころ床についたが、午後一二時ころトイレに立ったころより、うわごとを言い始めるなど容態が急速に悪化したので、同月二四日午前三時一六分に救急車で沼田病院に運ばれたが、すでに脳出血を起こしており、午前九時一七分に高血圧性脳出血により死亡した。

《証拠判断省略》

三  そこで、前記認定事実を前提にして、被告の責任の存否について検討する。

1  注意義務内容について

医師はその有する医学上の知識と技術をもって患者の症状を診断し、かつ適切な経過観察の下に治療を施すべき注意義務があるというべきところ、前記のとおり、被告は内臓外科を専門領域とし、昭和五〇年ころより微量ステロイド筋注治療法という独特の治療法を行なっていたものである。ところで、右治療法はネ症候群に対する根本治療法ではなく、主として両足の浮腫に対する対症療法にすぎないものと認められるが、被告は、前記のようにその著書において、ネ症候群や高血圧症についても治療する旨明らかにしており、これにより、亡良生が被告医院で診療を受けることを希望し、被告が同人をネ症候群と診断してこれに応じた以上、被告にはネ症候群の各種症状の一つである高血圧症状についても、これを治療(これができない場合は転医勧告)すべき義務があると解すべきである。

2  そこで、被告の右義務違反(過失)の存否について順次判断する。

(一)  適切な降圧療法を実施しなかった過失について

《証拠省略》を総合すれば、以下の事実が認められる。

(1) WHOの高血圧の基準によれば、血圧値が最大一三九、最小八九(両者とも)以下を正常範囲、最大一四〇、最小九〇から最大一五九、最小九四(いずれか一方又は両者)までを高血圧が疑わしく観察を要する境界域、最大一六〇、最小九五(いずれか一方又は両者)以上を高血圧と定めている。

高血圧は、腎疾患や内分泌疾患等が一次的疾患であり、その一症状として二次的に高血圧を呈するもの(二次性高血圧、亡良生の場合も腎性高血圧であり、これに当ると認められる。)と右原因疾患を明らかにしえないもの(一次性又は本態性高血圧)に分類される。

しかして、二次性高血圧、本態性高血圧のいずれにおいても、血圧の上昇自体が危険であり、高血圧の程度と持続とが一定以上になれば、脳・心・腎の合併症を起こし、また最大・最小血圧の増加とともに死亡率が上昇する。

なかでも、異常な血圧の上昇に伴って出現する急性の脳症は高血圧性脳症と呼ばれ、急激な血圧の上昇とくに拡張期圧の著しい上昇(通常一三〇以上とされる)とそれに伴っておこる脳圧亢進症状、すなわち、頭痛、悪心、嘔吐、けいれん、視力障害、一過性の意識障害をその臨床症状とする。

高血圧症に対する治療法としては、一般療法(安静・運動・食事療法等)と降圧剤療法があり、降圧剤療法を選択すべき高血圧症につき、最小血圧一二〇以上の場合には脳・心・腎など心臓血管系合併症の発生頻度が高いことから、右合併症発生の危険を防止するためすみやかに降圧剤療法を開始すべきであるとする医学文献もいくつか存在するが、原告の主張によれば我国の医療機関で広く利用されているという「今日の治療指針」という医学文献によれば、中等症高血圧患者(最小血圧一二〇以上)においても、まず一定期間、一般療法(ことに食塩制限)によって血圧の経過を観察するものとされ、降圧剤療法の適応として、高血圧性脳症をはじめとする高血圧性緊急症については、緊急に降圧を必要とし、一般には注射によって急速に血圧を下げ、血圧値が落ちついた時期に経口投与に移行するものとされ、拡張期血圧が常に一二〇以上の高血圧症については、直ちに経口投与による降圧剤療法の適応があるものとされ、拡張期血圧が一〇五ないし一一九の高血圧症については、厳重な食塩制限を主とする一般療法を行ない、血圧の推移を観察した後(一か月に数回血圧を測定)、血圧の下降がみとめられず、また上昇傾向を示す場合には、降圧剤の経口投与を開始するものとされている。

(2) ところで、前記認定のとおり、亡良生は、昭和五五年三月一六日に菓子やパンを食べた後嘔吐し、同月一七日被告に対し、フラフラ感を訴えており、同月一九日午前一〇時には同人の血圧は最大血圧二一〇、最小血圧一二〇と測定された。

しかして、三2(一)(1)項に認定したとおり、我国の医療機関で広く利用されているという医学文献によれば、直ちに経口投与による降圧剤療法の適応があるのは、拡張期血圧が常に一二〇以上の高血圧症の場合であり、しかも、最小血圧一二〇以上の中等症高血圧患者においても、まず一定期間一般療法によって血圧の経過を観察するものとされていることからすれば、被告が、亡良生の右血圧測定の結果を得た時点で直ちに降圧剤療法を開始しなかったからといって、被告に過失があると断定することはできない。

(二)  転医勧告義務について

原告は、被告には、三月一九日に亡良生の高血圧を知った時点で同人に対し、転医勧告をなすべき義務があった旨主張するが、同主張は、右時点で亡良生に対し、降圧剤療法を施行すべき義務の存在を前提とすると解されるところ、前記のとおり、被告に右義務があったものとは認められないから、被告が転医を勧告しなかったからといって、被告に過失があるとはいえない。

(三)  デキサメサゾンを漫然と投与した過失について

《証拠省略》によれば、デキサメサゾン(正確にはデキサメタゾンリン酸ナトリウム注射液、商品名オルガドロン注射液)は、腎疾患(ネ症候群)ほか様々な症状に適応するが、使用上の注意として、血圧上昇の副作用があらわれることがあるので、観察を十分に行ない、これがあらわれた場合適切な処置を行なうものとされている。

しかしながら、他方《証拠省略》によれば、副腎皮質ステロイド剤の副作用のうち、血圧上昇の出現率は二・一パーセントにすぎないことが認められる。

そうすると、被告が亡良生に対して投与したデキサメサゾンにより、血圧上昇の副作用があらわれたものとはにわかに断定し難いから、その投与をもって被告に過失があるということはできない。

(四)  厳重な安静療法、食事療法等を実施しなかった過失について

前記のとおり、最小血圧一二〇以上の高血圧患者については、心臓血管系合併症の発生頻度が高いことから、ただちに降圧剤療法を選択する必要がないとする前記「今日の治療指針」においても、一定期間一般療法(ことに食塩制限)によって血圧の経過を観察するものとされており、また《証拠省略》によれば、高血圧患者につき激しい頭痛や目眩などの脳症状などを認めるときは安静臥床が必要であると説かれているところ、被告は、三月一九日に、亡良生の最小血圧が一二〇あり、かつ頭痛や目眩などの症状のあることを知ったのであるから、同人に対し、少なくとも当分の間、厳重な安静を指示して血圧の経過を観察すべき義務があったというべきである。

しかるに、前記認定のとおり、被告が亡良生に対してなした安静の指示は、ベッドに寝ておきなさいという程度のものであり、しかも、同月二二日に亡良生から外泊許可の申出がなされた際も、同人が自宅への交通機関まで告げて外泊帰宅したい旨の意向を示しているのに対し、被告は「ううん」とあいまいな返事をしたのみであり、亡良生に対し、外泊することの危険性を十分認識させた上、明確にこれを禁ずることをしなかったことが認められるから、被告には、右義務を怠った過失があると認めるのが相当である。

3  しかして、前記のとおり、亡良生は、三月二二日午後外泊帰宅していたところ、三月二三日には既に脳出血の徴候があらわれ、同日から同月二四日にかけての深夜に激しい脳出血発作を起し、同月二四日午前九時一七分に死亡するに至ったものであるが、被告が亡良生を帰宅させず、被告医院内において安静を保たせ、経過を観察しておれば、右脳出血を起さなかったか、又は仮に起したとしても、直ちに転院させ、降圧剤注射により急速に血圧を下げる等して亡良生を救命しえた可能性は多分に存在したものと推認するのが相当である。

従って、被告の前記過失と良生の死亡との間には法律上の相当因果関係があると認めるのが相当である。

4  以上のとおりであるから、被告は、民法七〇九条により良生の死亡によって原告らに生じた損害を賠償すべき義務がある。

四  損害

1  亡良生の逸失利益の相続分

(一)  《証拠省略》によれば、亡良生は死亡当時三二歳の男性であって、生前は通常の勤務に差し支えない状態であったと認めるべきであり、そうすると、六七歳までの三五年間、稼働が可能であると推認される。ところで、《証拠省略》によれば、昭和五四年度における亡良生の年間給与額は二八五万一四四六円であると認められ、昭和五五年度における亡良生の年間給与額は少くとも右金額と同額以上であることが推認できる。したがって、亡良生の逸失利益の総額は二八五万一四四六円から生活費相当分と思料される三分の一を控除し、ライプニッツ式計算方法(ライプニッツ係数一六・三七四)により中間利息を控除して算出される金三一一二万六三八四円(但し、一円未満切捨による。以下同じ。)となる。(285万1446円×16.374×(1-1/3)=3112万6384円)

(二)  原告くに子は亡良生の妻であり、原告良英は亡良生の子であることは当事者間に争いがないから、良生の死亡により右逸失利益の総額を各自の法定相続分(原告くに子については三分の一、原告良英については三分の二)に従って相続したことが認められる。

したがって、亡良生の逸失利益の相続分は、原告くに子については、金一〇三七万五四六一円であり、原告良英については、金二〇七五万〇九二三円である。

2  慰謝料

亡良生は、原告らにとって一家の主柱であり、原告らが同人の死亡により甚大な精神的苦痛を被っていることは想像に難くなく、原告ら固有の慰謝料としては、原告ら各自につき金七五〇万円をもって相当と認める。

3  葬儀費用

弁論の全趣旨によれば、原告くに子を喪主として亡良生の葬儀が執り行われたことが認められるところ、葬儀費用としては金七〇万円をもって相当と認める。

4  過失相殺

亡良生は、当時三二歳という思慮分別を十分にわきまえた年齢に達していたのであるから、自らその身体状況に注意し、健康の保持に努めるべき義務があったというべきところ、前記二1で認定したとおり、同人は、かつて高血圧症を伴うネ症候群により入院治療を受けた経験もあったのであるから、昭和五五年三月一九日に測定した自己の血圧値が正常範囲を大きく超えていることを認識していたと思われ、また同月一七日から一九日にかけて頭痛や目眩などの自覚症状まであったのに、同月二二日被告に対し、外泊許可の申出をなし、被告から、一旦は「それはいかん」と言われ、これを禁じられたにもかかわらず、その後の被告の言動から外泊許可がなされたものと安易に理解して外泊帰宅し、しかも、前記二6で認定したとおり、帰宅直後から体調が思わしくなく、自宅で横になったままでいたというのに、救急車で沼田病院に運び込まれるまでの二日間、被告に連絡をとってその指示を求めることもせず、その結果脳出血を起こし、死亡したのであり、これによれば、亡良生にも損害発生について過失が存するというべきところ、被告と亡良生双方の過失の内容、程度等を彼此勘案すると、過失相殺として、原告らの損害の五〇パーセントを減ずるのを相当と認める。

5  弁護士費用

弁論の全趣旨によれば、原告らは、それぞれ原告ら代理人らに本件訴訟の遂行を委任していることが認められるところ、原告らが損害として求めうる弁護士費用は、原告くに子については金七〇万円、同良英については一二〇万円をもって相当と認める。

五  よって、原告らの本訴請求は、原告くに子については、金九九八万七七三〇円と、内金九二八万七七三〇円(弁護士費用を除いた金額)に対する良生が死亡した日の翌日である昭和五五年三月二五日から支払済みまで、及び内金七〇万円(弁護士費用)に対する訴状送達の日の翌日である昭和五六年一月一五日から支払済みまでそれぞれ民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を求める限度で、原告良英については、金一五三二万五四六一円と、内金一四一二万五四六一円(弁護士費用を除いた金額)に対する良生が死亡した日の翌日である昭和五五年三月二五日から支払済みまで、及び内金一二〇万円(弁護士費用)に対する訴状送達の日の翌日である昭和五六年一月一五日から支払済みまでそれぞれ民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を求める限度で、それぞれ理由があるからこれを認容し、その余は失当であるからこれを棄却することとし、訴訟費用の負担については、民訴法八九条、九二条、九三条を、仮執行の宣言については、同法一九六条をそれぞれ適用して、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 橋本勝利 裁判官 吉田肇 佐藤真弘)

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